歴史に埋もれた斑鳩の謎【法隆寺】


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「いかるが」という由緒ある麗しき地名があるにもかかわらず、斑鳩町一帯は法隆寺と称されることが多い。
現に、この地図からJR関西本線・法隆寺駅や西名阪道・法隆寺ICなどが確認できる。特に法隆寺に直結するわけでもない、これらの交通機関の命名の拠り所が、聖徳太子が建立したといわれる、世界最古の木造建造物である法隆寺にあるのは間違いのないところだ。

法隆寺は、またの名を斑鳩寺という。かように由緒ある「斑鳩」の地名が、あの平成の大合併のために抹殺されそうになったことがある。
合併の話が立ち消えになったために危うく難を逃れたとのことだが、新市名の候補には「聖徳太市」なる噴飯ものの案まであったと聞く。いかに「和を以て貴しと為す」聖徳太子であっても、ろくでもない者たちの「和」はろくでもない結果しか生まない、と悟るに違いない。聖徳太子は「世間虚仮」という言葉を残したが、この「聖徳太市」こそ世間をコケにしていると思うが、いかがだろうか。

法隆寺が世界最古の木造建造物であること、建立したのを聖徳太子とする説があることは既に述べた。
当時を伝える『日本書紀』などの文献資料は事実かどうか疑わしいものが多いのだが、それでも推古朝(592~629)の末期には法隆寺も建立されていたと考えるのが妥当とされる。

ところが、当時の法隆寺は天災のために一度焼失し、現在の法隆寺は後に再建されたものではないかとする説がある。
中公文庫『日本の歴史(2) 古代国家の成立』によると、天智九年(642)当時の状況が『日本書紀』ではこのように記されているという。

「夜半の後、法隆寺に災あり。一屋余すなし。大雨雷震す」

『書紀』の記述など信ずるに足りぬ、現在の法隆寺こそ太子が建立したものだとする非再建説と、上に述べた再建説との間で、激しい論争が起こった。

論争に決着をつけるために用いられたのは、現地の発掘調査であった。
発掘調査は昭和14年(1939)12月、焼失したとされる若草伽藍跡の礎石を足掛かりにして行われた。


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若草伽藍跡は、この航空写真では「普門院」と記されている建物の南の空き地にあたる。空き地内に円形の構造物が写っているが、あるいはこれが若草伽藍の心礎かもしれない。

発掘の結果、若草伽藍はかなり規模が大きく、現法隆寺と同規模の塔と金堂を持つ寺であることがわかった。
さらに、両者の配置について非常に興味深い結果が得られた。『日本の歴史』から抜粋する。

つぎに重要なのは、塔跡と金堂跡の中心をむすぶ伽藍の中軸線が、磁北にたいして西に約二十度ふれていることである。いまの法隆寺の中軸線は西へ三度傾いているにすぎない。法隆寺と若草伽藍とでは、寺の規模はほぼ同じだが、方向が十七度くいちがっているのである。

(中略)

さらに若草伽藍跡と関連して注意されるのは、付近の地割りや道路に、若草伽藍の中心線と平行または直角のものが存在することである。若草伽藍跡のすぐそばの東大門から夢殿へ向かう道、東大門から北方の土塀、それと逆の地点にある西大門から南の土塀などがそうである。若草伽藍があったころの地割りのなごりであろう。

以上の結果から、天智九年に焼失した若草伽藍と現法隆寺とが同時期に併存することは不可能であること、現法隆寺が若草伽藍の跡地を一部利用して建てられたものであることがわかった。
現在の法隆寺は、太子の死後に再建されたものだったのである。




法隆寺再建非再建論争がおこったのは、近代になって日本史が体系的、学術的に研究されるようになってからであった。
それは、日本政府が「神州日本」として天皇を神格化しようと企てていた時代とも一致していた。
和気清麻呂や楠木正成のように、天皇家の維持や復興に尽力した人物が偉人として取り上げられた。
飛鳥時代に隆盛を極めた蘇我氏に対抗して、天皇家の権威と影響力を高めようとしたとされる聖徳太子も、もちろんその一人に数えられるだろう。

太子にかんする伝説や功績のいくつかは、事実ではないといわれている。有名な冠位十二階や十七条憲法についても、実際に太子がそれを行ったかどうか疑わしいというのである。
あるいは、法隆寺もその一つだったのではないだろうか。世界最古の現存する木造建造物を建立したのが、他ならぬ聖徳太子であることが求められた時代があったのだろう。
1939年という時に、よくぞこんな研究や発掘調査が行われたものだと思う。




再建非再建論争に決着をつけた後で、本文の方はもう少し先に続いている。

さて若草伽藍──最初の法隆寺──は、いまの法隆寺西院伽藍より斑鳩宮に近い。しかも斑鳩宮の遺跡は南北中心線の磁北にたいするふれが西に十二度であって、若草伽藍の中心線とあまり大きな差はない。

昭和九年(1934)に行われた発掘調査から、斑鳩宮は若草伽藍の東側、現在の夢殿の付近にあったことがわかっている。そして、斑鳩宮の南北中心線は若草伽藍のそれよりも北方向にふれている。

夢殿の北、北室院より北北西に伸びる道の方角は、現在の法隆寺の南北軸とも、若草伽藍の遺構とされる道路の方角とも一致していないように見える。
あるいは、この道が斑鳩宮の遺構なのだろうか。あいにく、ぼくにはそれを知る方法がない。

現在の斑鳩の地図には、千数百年の歴史が積み重なっている。
しかし、もしも歴史を一枚ずつ剥ぎ取っていくことができるならば、太子が移り住んだ斑鳩宮と、太子が建てたとされる若草伽藍が並ぶ姿が見えるのだろう。

そこに、太子の姿はあるのだろうか。

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このページは、kimisekaが2008年10月25日 00:01に書いたブログ記事です。

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