尾鷲という地名から、人々が連想するものといえば何だろうか。
「雨の多い町」というのがもっともポピュラーだろうか。少し詳しい人ならば、背後の大台ヶ原山系が多雨をもたらす要因となっていることや、世界遺産に指定された熊野古道にも縁のあることも挙げるかもしれない。
ご覧のとおり、尾鷲市街の背後はすべて山に囲まれている。市外、特に南方の熊野市方面に向かう鉄道や国道がことごとく長大なトンネルや山中の隘路となっていることが、この地図からも窺える。鉄道や道路の建設工事は困難を極め、紀勢本線の全通は、この尾鷲-熊野市間が開通する昭和三十四年(1959)まで待たなければならなかった。
これから紹介する地図では、尾鷲が単に「雨の多い町」ではないことを伝えたいと思う。
尾鷲市外の沖合に須賀利町という集落がある。
渡船の記号があるが、これは尾鷲と須賀利町を繋ぐ一日四往復の巡航船のことである。
だが、巡航船が就航していても、ここは離島ではない。近年開通したと思われる道路によって、隣の紀北町を経由して尾鷲市街に行くこともできる。
それでも、道路が開通する前から、いや、道路が開通した後でも、船の方が便利が良いのだろう。市街から遠く離れた須賀利町が飛び地のような格好で尾鷲市に編入されているという事実が、そのことを物語っている。
九鬼水軍の本拠は熊野灘付近とされる。その証拠とまでは言わないけれど、現在でも尾鷲市域に九鬼という地名が残る。
海路でなければ交通が成り立たなかった地域において水軍が発達したのは、当然のことだったのかもしれない。
次は、陸路に目を向けよう。
尾鷲市と田辺市を結ぶとされる、国道425号の起点付近を取り上げてみた。
敢えて「結ぶとされる」と記したのは、この国道が都市間交通の役割を全く果たしていないからである。
Wikipediaの言葉を借りれば「日本三大酷道路線」の一つに数えられるというこの国道を踏破しようとする冒険好きは多いらしいが、そのレポートを見た限りでは半端な状況ではないらしい。
紀伊半島の山中を走る箇所が酷いのはまだわかるとして、この地図を見る限りでは起点の尾鷲市街付近から既に妖しさを漂わせているようだ。
墓地の間を縫うように走る、一車線の国道。全線踏破を狙う冒険家を憂鬱な気分にさせること請け合いだろう。
なお、この区間は西→東の一方通行区間があるため、自動車では起点から終点に向かうことができない。なかなか珍しい国道ではある。
以後は、高規格道路として開通した区間の紹介になる。
ただし、地図からは便利になった交通ではなく、開通前の交通の凄まじさの方を読み取ってしまうのだろうが。
海岸沿いに走る国道311号も、尾鷲市梶賀-熊野市須野の区間が長い間未開通であった。かつて紀伊半島一周のドライブをした際に、この区間を迂回したことを今でも覚えている。
小さな浜に面した集落を完全に無視して、新道が突き抜けている。これは、旧道の拡幅や延長だけでは、この区間を建設することができなかったことを意味する。
全国どこでも見られる光景ではあるが、いつ見ても複雑な心境にかられる。
開通の前と後を撮影した貴重な資料を見つけたので、ここに紹介する。
紀伊半島の大動脈・国道42号は山間部を抜けて熊野市に向かう。
これは、矢ノ川峠の手前付近を切り出したものである。
現在はの道路が完成する前の道路がどのようなものだったのかを想像した後で、地図をよく眺めてもらいたい。
国道に並走する、幅員1.5m以上2.5m未満の道路の存在がわかるだろうか。
鉄道の開通からも取り残された区間を、往時はボンネットバスが結んでいたという。性能の良くないバスに乗って、狭い未舗装の峠道を越える苦労はどれ程のものだったろうか。

快走路であっても、矢ノ川峠越えは厳しい。この写真は、上図にも記されている覆道付近から峠方面を撮影したものだ。
当日の天候は「雨の多い町」の評価を裏切らなかった。水蒸気に霞む紀伊の山々は写真以上に迫力があり、これから峠へと向かうぼくの気力を削いだ。
「昔は『箱根八里に矢ノ川七里』と言うてなあ」と、沿道の雑貨屋のおばあちゃんはぼくに教えてくれたものだった。後になってこの言葉をネットで探してみたが、まだ見つけられてない。
あれから十年が過ぎた。あの雑貨屋のおばあちゃんが今も健在かどうか、ぼくは知らない。
だが、こうやって峠の厳しさを伝える言葉を後世に残すことができたとしたら、きっとおばあちゃんも喜んでくれると思うのだ。
