君の知らない世界一周物語

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ダンシャリアンの苦悩。サッカーボールの必要性について

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時をさかのぼること2か月。ぼくはトルコのイズミールという町にいた。海辺の、特に何もない町だ。

ぼくはそこで、丸い顔をした君に出会った。

そう、サッカーボールである。

 

もともとぼくはサッカーが好きで、社会人になってからフットサルを始めた。

旅に出る直前まで、毎週のようにフットサルをしていたのだ。フットサル仲間のみんな、元気にやっているかな。

 

 

それが旅に出てからというもの、ボールを蹴らなくなった。その反動からか、旅先でボールを蹴る人たちを見るたびに、「いいなぁ。サッカーしたいなぁ」と、羨望のまなざしになっていた。

 

 

あるとき、ぼくはボールを買うことを決意した。

ボールを持っていれば、きっと旅先で楽しい時間が過ごせる。そう思ったのだ。

 

実際、トルコでボールを購入してから、何度かそのボールは活躍した。

エジプトのダハブでみんなでボールを蹴ったり、グアテマラのアンティグアでも友達と1on1をやったり。

 

 

しかし、よく考えると2か月で2回しかこのボールをまともに使っていないという事実に気づいたのである。

 

平均すれば1か月に1回の使用。

残念ながらこれは、ぼくの断捨離リストに入ってしまうほどの「使用頻度の少なさ」だ。ボールは重くてデカい。バックパックの中で圧倒的な存在感を示している。

※じつは、このボールを入れるために、大きめのバックパックに買い替えた。

 

断捨離を実践するダンシャリアンとして、ぼくはこのボールを捨てるべきか、持ち続けるべきか、いま揺れに揺れている。

 

 

 

「思い出の品」

そんな言葉が浮かぶ。

 

スポーツ用品店のおじさんから、値切って30リラ(約1,500円)で買ったこのボール。

ボールを買ったときはすごくうれしくて、ぼくは子どものように毎日ボールを触っていた。

 

 

エジプトのダハブで、海沿いの道を歩きながらこのボールを蹴っていたら、現地人が集まってきてサッカーが始まった。

エジプト人のボールに対する執念はすごかった。

 

 

アンティグアのバスケットコートで、現地人とサッカーしようと思って日本人二人で行ってみたら、誰もいなくて、結局半日1on1をひたすらやっていた。

 

 

 

そんな思い出の詰まった品だ。

 

断捨離において、このような思い出が邪魔をし、なかなか捨てられないという葛藤はよくあることだ。

多くの人は、こういった思い出が断捨離の覚悟を上回り、捨てられずに問題を先送りする。そしてぼくも、昔はそういう「捨てられない人間」だった。

 

 

 

そこでぼくは考える。

思い出とは、どこに存在するのか?

 

ボールの中に詰まっているのか?いいや、違う。

写真に写っている笑顔が思い出なのか?いいや、違う。

 

 

思い出とは、ぼくらの心の中に存在するものだ。

であれば、たとえ「思い出の品」とよばれる幾多のアイテムを失くしてしまったとしても、思い出はぼくらが生きている限り、永遠にそこに存在するはずだ。

そうでなければおかしい。

 

そうでなければ、この世は思い出の品で埋め尽くされてしまう。思い出の歯ブラシ、思い出の靴、思い出の自転車。。。

断捨離して思い出を抽象世界(心の中)に解放してやらなければ、バックパックだけでなく、部屋や家の中、あるいは世界中がアイテムで埋め尽くされ、大変なことになってしまうだろう。

 

思い出はぼくらの心の中にのみ存在し、アイテム自体には依存しない。それを理解していなければ、断捨離を決行することはできない。

 

 

 

断捨離とは決断の哲学だ。

モノに限らず、偏見や思い込み、古い自分の価値観などを捨てる。これも断捨離であり、むしろ思考法としての断捨離の極意はそこにある。断捨離は、単なる掃除方法ではないのだ。

 

しかし同時に、ぼくはこのボールを捨てられずにいる。

もう少しだけ問題を先送りしてみたい。そういったある種の「許し」も、ぼくがこの旅で大切にしていきたい感情である。

 

 

「ボールはトモダチ」

あの偉人の言葉が、ここグアテマラでぼくの胸に響いた。

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