君の知らない世界一周物語

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”美しさを感じる心”で眺めるフィッツロイ

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「この世界には、”美しい山”というものは存在しないーーー」

フィッツロイを見に行った帰り道。山道を下りながら、ぼくは考えていた。

「”山の美しさを感じ取る心”があるだけなのだ」

※フィッツロイとは?⇒アルゼンチン南部のパタゴニア地方にある山の名前。アウトドアブランド「パタゴニア」のロゴのモチーフになっている。

 

”美しさ”ほど、個人の感覚に左右されるものはない。おそろしく不確かなものなのだ。

 

”世界が美しく見えるかどうか”は、事象それ自体に由来するものではない。ぼくら自身の認識能力にのみ由来する。

たとえばカジノ。よく洗練されたディーラーがルーレットにボールを投げ入れるその所作。審美眼の発達した者は、その所作さえからも美しさを感じ取るものなのだ。

 

”美しいといわれる絶景”を見たところで、感動するかしないかは、人それぞれということである。

 

”美しさを感じる心”というのは、ある種の”本能”といってもいい。それは”人を愛する心”のように、もともと人間に備わっている先天的能力であるが、「審美眼を磨く」という言葉もあるように、後天的に伸ばすことのできる能力でもある。

つまり”美しさを感じる心”は、先天的かつ後天的な能力なのだ。

 

 

 

「逆に言えばーーー」山道を上ってくる観光客とすれ違いざまに”オラ!”とあいさつを交わしながら、ぼくは思った。

「発達した審美眼をもってすれば、どんな事象からも美しさを感じ取ることができるはずだ」

 

 

 

とどのつまり、ぼくがこの記事で言いたいことはこうだ。

「往復8時間の山道を必死に歩き、ようやく見れたフィッツロイが、雲に隠れてよく見えませんでした」
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もしもこの世界に”万人受けする美しさ”というものがあるならば、それはとても味気ないものになってしまうだろう。

そんな”優等生的な美”は、グーグル画像検索で見てしまえばいいのだ。それで事足りるであろう。そんな”量産型ザクみたいなありふれた美”を求めるなら、もともと旅に出る必要さえもない。

 

 

 

旅とは、”世界を心の目で見る”ということなのだ。

 

あるいは、誰かはこう言うかもしれない。

「せっかくパタゴニアまで行ったのに、きれいなフィッツロイが見れなくて残念だったね」と。

強がりに聞こえるかもしれないが、ぼくはこう言い返すだろう。

「いいや、ぼくには美しいフィッツロイが見えていたよ。その美しさは、ぼくだけが感じることのできる”ストーリーの美しさ”かもしれない」と。

 

 

 

世界は目に見えるものがすべてではない。美しさとは、そこここに転がっているものであり、それを見ようとするかどうかなのだ。ものごとを表面的に見ず、思考訓練し続ける姿勢が大切なのだ。

 

 

ぼくはこの”雲隠れのフィッツロイ”からさえも、美しさを受容できる。

深夜2時に起きて山道を上り始め、美しい星空が見れたこと。

小動物が道案内してくれたこと。

キツツキみたいな鳥が木を一心不乱につつく様子を見れたこと。

 

そんなストーリーこそが、ぼくにとってのフィッツロイであり、美しさなのだ。けっして、朝日に染まる黄金色のフィッツロイだけが美しいのではない。

 

 

 

こうして、パタゴニアの最終イベントが終わった。

ぼくは満足だ。

 

さぁ、サンティアゴへ帰ろう。

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