君の知らない世界一周物語

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ぼくが観光をやめた理由「感動はいつ感動になるか?」

datsukankou
地球上に人間が自分一人しかいなかったとしたら、ぼくらはなにをしても感動することはないだろう。

一人で感じる”それ”らしき気持ちの高まりは、おそらく感動ではない。

感動は、仲間とシェアした段階で初めて感動になるのだ。

 

「自分」という言葉は、「自らを他人と分ける」と書く。他人の中で生きて初めて、自分は自分となり、人は人となる。

これはぼくら人間の存在の前提条件であり、全宇宙に共通する黄金のルールだ。

つまり、あなたの暮らす”人間というルールにおける認識世界”では、他人との関連性の中でしか、あらゆる事象は”存在”となりえないのだ。「感動」も当然、そのルールに包括される。

 

 

「あるいはーーー」宿の従業員の話し声をBGMにして、ぼくは慎重に言葉を選ぶ。「ある種の思考の飛躍があるかもしれないが、だからこそぼくは、観光することをやめたのだ」

 

「観光は手段であり、目的ではない」という重大な事実。

どうか気づいてほしい。ウユニ塩湖を見ることは、”目的ではない”のだ。

 

この思考の境地にたどり着くためには、少なくともぼくは、世界中で死ぬほど観光して、死ぬほどツアー料金を払う必要があった。

※ぼくはこれまでの観光を後悔しているわけではない。仲間と見た絶景は、いつまでも宝物の思い出であることに変わりはない。旅とは、ある種の思考訓練であり、思考実験なのだ。

 

 

そう、観光は目的ではない。ウユニ塩湖やモアイ像を見ることは、ぼくらの人生の目的ではありえないのだ。

ぼくらの人生の目的とは、「人の心に残る」あるいは「人の記憶に入り込むこと」だ。

 

 

 

「人を動かす」「誰かの歴史の登場人物になる」

これこそがぼくら人間の生きる意味であり、人生の希望たりえる。

絶景なんて、テレビCMみたいなものだ。絶景にだまされるな。そこに真なる感動はない。真なる感動は、絶景をもっと抽象化したところに存在する。

 

 

 

10か月で47か国。世界中で絶景を見続けてきて、ぼくはようやくその境地にたどり着くことができた。

社会的存在たるぼくら人間が真なる感動を得られるのは、「人の心に入り込んだとき」なのだ。

そこにこそぼくらの存在意義がある。ぼくらは誰か他人の心を動かしてこそ、この150億年という宇宙史の中で、一瞬ごとき生を受けた意味がある。取るに足らない一瞬の命が、初めて輝きをもつ。

誤解しないでほしい。自分の心が動くのは、他人の心を動かすことができたときなのだ。

 

 

 

 

そんなぼくがいま、熱中していること。

・スペイン語で現地人と会話&笑わせる
・片言韓国語で韓国人旅行者を笑わせる
・トランプマジックで人を驚かせる
・マクラメを作ってプレゼントする
・マクラメを人に教える
・世界一うまいチョコクラッカーを初対面の人に配る

 

 

 

手段を目的だと勘違いすると、人生は苦しいものとなる。旅もまた然りだ。

抽象の階段を上ろう。出来事を俯瞰(ふかん)しよう。

※俯瞰するとは?⇒物事を高いところから見下ろすこと。転じて、目の前のものから、裏に潜む共通点や真実を見抜こうとする姿勢。「抽象化思考」「帰納的に考える」もほぼ同じ意味。

 

人生におけるあらゆる出来事を俯瞰して、共通点を見いだすのだ。そうすれば、すべてはつながっているということに気づくだろう。

あなたにとって真理(大切なもの)はひとつで、手段は無数に用意されているはずなのだ。

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